2016年3月11日金曜日

3.11 東日本大震災

あれからもう5年が経ちました。
そう、今日は3月11日。東日本大震災の発生した日です。

昨年の今日も書きましたが、僕の勤める会社の工場が福島県会津若松市にあります。
原発事故や津波の被害は直接は無かったけど、それでも工場内が大きく破損するほどの被害を受けました。

そして、僕は会津若松へ工場復旧の応援へ向ったのです。
そう。震災の復旧応援ではなく、工場の復旧応援へ。

当時、移動中の僕達には津波や原発の被害状況が詳しく伝わってこない状況。交通網が麻痺状態の中を無理を言って頼んだタクシーで長距離を移動しました。
道路が地震の影響で隆起し、建物が倒壊しているのを横目に会津若松市へ向かいしました。

「あぁ、テレビのドキュメンタリー番組で見る震災の風景だな……」

その時、僕はどこか他人ごとのように感じていました。まさに”対岸の火事”、そんな感覚でした。

会津若松市に到着してすぐに、工場での復旧作業が始まりました。震災の翌日の事です。
朝から晩まで会社で作業をしていましたが、そんな僕達にも次第に東日本で起きたこと、今起きていることが伝わってきました。
そして、僕は思いました。

「何やってるんだろ俺……」

工場内には大きな被害がでたものの、街の生活においては被害の大きくなかった会津若松市でしたが、それでも食料は無くなり、燃料も無くなりました。

そんな場所で、僕は貴重な食料を消費し、燃料を消費していました。

誰一人助けていない。ただ、貴重な物資を消費していただけ。

車で1〜2時間走れば、そこには助けを求める多くの人がいました。
それなのに僕は、工場を早く復旧させ、製品を出荷するために朝から晩まで働いていました。

工場復旧作業のために会津若松市に2週間ほど滞在しましたが、その間、僕は早く帰りたくて仕方がなかった。
多くの助けを求める人に手を差し伸べもせず、会社の利益のために働く自分が恥ずかしくてたまりませんでした。
とにかく、その場に居る自分が嫌で逃げ出したかった事を今でも覚えています。

大手半導体工場である僕の会社は、震災から1ヶ月足らずでフル操業レベルに復旧したことで一部メディアにも取り上げられました。
会社は、僕ら応援者へ感謝してくれました。「よくやってくれた」と。

でも、僕はちっとも嬉しくなかった。早く忘れたかった。



あれから5年。
3月に入った頃から、各テレビ局で震災に関する特集や特番が始まりました。
そんな報道を目にすると、今でもあの当時の情けない自分を思い出します。

サラリーマンなんだから、会社の指示に従うのは当然だったのでしょうか?
会社に無理を言ってでも被災者の応援へ向かうべきだったのでしょうか?

僕はその時、どうするべきだったのだろう?

現在、会社では大規模震災の際に一週間で工場を復旧させる為の取り組みをしています。
それって本当に必要な行動なのでしょうか?

今でも答えは見つかっていません。


津波や原発事故で大きな被害を受けた方々に比べれば、何てことのない些細な出来事だったのかもしれません。

でも、僕という人間にとっては、自分の生き方を考え方させられる、大きな影響を与えた出来事でした。


そしてこれが、僕にとっての東日本大震災なのです。



災害により亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。



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